ブランド誕生140周年。干場義雅が引きつけられる“時間をゆっくり楽しむ”腕時計とは?
講談社ウェブマガジン「フォルツァスタイル」で、 「ヒストリアドール アストゥリアス」を 干場義雅さん、藤井悠さんに語っていただきました。
【干場気絶!!】イギリス首相も愛した時計!CUERVO Y SOBRINOSの魅力に迫るYou Tubeチャンネル” MINIMAL WARDROBE”で、 ファッションディレクターであり 『FORZA STYLE(フォルツァスタイル)』編集長を務める干場義雅氏に 「プロミネンテ ダブルテンポ」をYoutubeで紹介していただきました
クエルボ・イ・ソブリノスが誕生したキューバってどんな国でしょう? 米・キューバ国交正常化へ前進 2015年5月29日、奇しくもこのページを作っている今日この日に米国務省はキューバに対するテロ支援国家の指定を解除しました。 クエルボ・イ・ソブリノス創業 - ハバナの優雅・洗練と共に 19世紀末、「カリブ海の真珠」とも謳われたハバナは冒険家や船員はいうまでもなく、 栄華を極めていたといっても過言ではありませんでした。 当時のハバナにはゆったりとした時が流れ、自由で優雅な時を過ごせる独特の雰囲気がありました。 そのゆったりとした時の流れを優雅に楽しむというライフスタイルは洗練された真の贅沢であり、忙しい彼らに豊かで穏やかな真の喜びをもたらしました。 クエルボ一族はそのハバナでアルマンド・リオ・クェルボとその兄弟たちがおじであるラモンの創業した宝石店を営み、 ハバナの栄光と時を同じくして次第に成功を収めていきました。(「クエルボと甥たち」が後にクエルボ・イ・ソブリノスのブランド名をもたらすことになります。) 1882年の春、一族はハバナでも一流のアベニダ・キンタ通りに「La Casa」という店をオープンします。 文学、科学、映画、政治といった舞台で活躍する国際的な大物たちはハバナを訪れる際にはかならずこの店に集まるのが常でした。 後年、旧店舗の地下室で見つかり、つい数年前に明らかになった顧客名簿や写真でも明らかなように、 ヘミングウェイ、カールソー、ゲーブル、チャーチル、アインシュタインまでもがクエルボ・イ・ソブリノスの熱心な顧客としてその名を連ねていました。 彼らは職業や興味こそ大きく違っていましたが、誰もが逃避、優雅、洗練と同義語だった、ハバナの時代とクエルボ・イ・ソブリノスブランドを こよなく愛していました。
コロンブスが「発見」したキューバ
カリブ海のメキシコ湾入口に位置し、米国フロリダ半島から南へわずか150km。キューバは大航海時代の1492年、 国土は110,922平方km(本州の半分程)、人口は1,124万人(2008年国家統計局)。約400年にわたるスペインの植民地支配の間に、 キューバ島の先住民族は滅亡したとされており、これに代わって、鉱山採掘や砂糖農園の労働力として、黒人奴隷たちがアフリカから連れて来られました。
ホセ・マルティとスペインからの独立 キューバ略史119世紀初頭、世界各地の植民地で独立戦争が起こる中、 キューバでは砂糖生産で経済力をつけた混血の農園主層を中心に、スペインに対する反発が強まっていきました。 第1次独立戦争は、スペイン軍が独立軍を鎮圧する結果となりましたが、その後、“独立の父”と慕われるホセ・マルティ率いる独立軍が第2次独立戦争を開始。 これにキューバ解放を旗印とする米国が参戦(米西戦争)し、1899年、ついに米国の軍事占領下で、キューバはスペインから解放されることになりました。
米国に“保護国化”されたキューバ
しかし、独立後まもなく、キューバは、スペインに替わって、キューバ領有を目指す米国 の強い影響下に置かれることになりました。 それが具体的に現れたのが、キューバ共和国憲法(1901年制定)です。 この憲法には、西欧諸国の影響力がキューバに及ばないようにするため、米国の干渉権やグアンタナモ海軍基地の租借権を認め、 外国との条約締結権を制限するなどの条項が盛り込まれました。 これにより、キューバは独立を達成したものの、事実上、米国の支配下におかれることとなり、現在まで続く両国間の確執の発端となりました。
フィデル・カストロのキューバ革命 1953年にフィデル・カストロらが襲撃したモンカダ兵営独立後のキューバ政治は、政争や民衆の反乱、暴動、それに対する米国の干渉などで混乱。 1933年にクーデターを主導したバティスタ参謀総長が大統領を凌ぐ力を持ち、また時に大統領としてキューバ最大の実力者となりました。 1952年には再度クーデターで政権を掌握しましたが、対米従属のバティスタ政権に国民は不満を募らせ、政権打倒の動きが活発化するようになりました。 この時、反政府勢力の一人として立ち上がったのがフィデル・カストロでした。 カストロは1953年、国内で武装蜂起するも失敗し、懲役15年の刑を受けますが、大赦により釈放され、メキシコ へ亡命。そこで、革命を志す勢力を結集し、1956年、祖国に潜入しました。 カストロ率いる革命軍は、農民の支持を得て攻勢を強め、1959年1月1日、ついに首都ハバナを陥落。こうしてキューバは、カストロを未来の指導者として迎え入れたのでした。 カストロに共鳴したチェ・ゲバラ キューバ革命の英雄として、カストロとともに高い人気があるのがチェ・ゲバラ です。 アルゼンチン人のチェ・ゲバラは、ブエノスアイレス大学医学部を卒業後、オートバイで中南米を放浪中に、貧困や病気、 圧政と不平等に苦しむ人々を目の当たりにし、「中南米の解放」を志すようになります。 カストロとはメキシコで出会い、徹底した平等主義で意気投合し、キューバ革命軍に参加。 ゲリラ戦を指揮し、革命の成功に尽力しました。カストロ政権下では工業大臣などを歴任しますが、その後はコンゴやボリビアに革命活動の場を移し、38歳という若さで波乱に満ちた生涯を終えます。 ホセ・マルティの精神を受け継いで、「弱者のための革命」を戦い抜いたカストロとチェ・ゲバラの人生は、今も多くのキューバ人に共感を与え、敬愛されています。
冷戦下での社会主義という選択
革命により誕生したカストロ政権は、農地改革、米系企業の接収などの急進的な改革措置を相次いで実施しました。 これに対し、米国は対キューバ援助打ち切りやキューバ向け輸出禁止などを行い、1961年には国交が断絶しました。 この頃、世界では米国(資本主義陣営)と旧ソ連(共産主義陣営)による冷戦が深刻化し、米国は反共政策を主軸に据えるようになります。 このような情勢の下で、カストロが米国の圧倒的な力に対抗するために選択したのが、ソ連の強大な力を借りること、すなわち社会主義体制への転換でした。
全世界を巻き込んだキューバ危機 そして、1962年、ソ連に急速に接近していたキューバにおいて、ソ連が核弾頭ミサイル基地建設を進めていることが明らかになり、 米国はミサイルを積んだソ連船のキューバ港到着を阻止するため海上を封鎖しました。 米ソ間の対立が核戦争にまで発展しかねないという緊張感が一気に高まりましたが(キューバ危機)、結局、ケネディ大統領とフルシチョフ首相の協議によって、最悪のシナリオは避けられました。 半世紀続く米国の制裁措置 こうして米キューバ間の対立が決定的となる中、米国は1962年、キューバとの貿易を全面的に禁止するなどの経済制裁を発動。 キューバは無条件の国交正常化、グアンタナモ米海軍基地の返還に加え、経済制裁の解除を強く求めていますが、 米国は人権擁護や民主的な選挙、複数政党制(キューバは共産党の一党体制)、政治犯の釈放などが実現されない限り、要求には応じない姿勢を堅持しています。 反カストロ勢力の米国亡命 多くの国民がカストロを支持する一方で、反対派のキューバ人もいました。その多くが、 革命政権成立時点で農場経営などにより経済的成功を収めていた富裕層でした。 彼らは私有財産を認めない社会主義体制を恐れて海を渡り、主に米国フロリダ州に亡命。 その後、米国で経済力をバックに米国政府や立法府に熱心に働きかけを行いました。 1996年には、対キューバ制裁を強化するとともに、キューバにおける米国財産保護などを目的とするいわゆる「ヘルムズ・バートン法」が成立したことを始め、 両国間の対立は一層明確なものとなりました。 ソ連崩壊と経済改革 キューバは革命後約30年間にわたり、大きくソ連からの支援などに依存していましたが、1991年のソ連崩壊により支援物資は途絶え、 1990年代前半、キューバ経済は未曽有の危機に見舞われました。 そこでキューバは経済面における改革に着手しました。 例えば、国民の外貨所持解禁、自営業の一部認可、個人への農地分与、外国資本の積極的な導入、農産物の自由市場再開などが挙げられます。 このような措置は、国民にとって経済危機のショックを緩和するのには役に立ちましたが、 外貨を持つ国民と持たない国民の格差拡大や汚職などの不正行為が広がるといった問題にもつながっています。 万人に医療と教育を 多様な人種で構成されるキューバの子どもたち一方で、キューバは「貧富の差はあっても、 医療、教育に差はない」と言われるほど、医療と教育が充実しています。 キューバは、B型肝炎ワクチンや抗がん剤といった医薬品開発や医療サービス分野で高い技術を持っており、 アフリカや中南米・カリブ諸国に対して、1960年代から医療支援を行っていることでも知られています。 教育も無償であるばかりでなく、途上国からも多くの留学生を受け入れており、アフリカや中南米にはキューバファンが多いといわれています。 もっとも一部には、「海外よりまず国民生活の向上を計ってほしい」という声もあるようですが、 こうした政策の中にも「万人に平等な社会の実現を目指す」というホセ・マルティの思想を受け継いだカストロの理念が反映されています。
フィデル・カストロ議長の引退 2008年2月、病気療養中のフィデル・カストロ国家評議会議長が引退を表明し、実弟ラウル・カストロ副議長が、議長に選出されました。 ラウル・カストロ議長は、重要政策についてはフィデル・カストロ前議長に相談していくとしていますが、 一部規制緩和や行政効率化など、独自の政策も打ち出しています。 米キューバ国交正常化へ前進 2015年5月29日、米国務省はキューバに対するテロ支援国家の指定を解除しました。 オバマ大統領はキューバ系米国人のキューバへの渡航制限と送金制限の撤廃、米企業のキューバ通信事業参入などを含む緩和措置を関係閣僚に指示し、 2009年9月には実施に移されました。これに対し、ラウル・カストロ議長は「あらゆる課題に対し、 米国と対話の用意がある」と表明し半世紀ぶりの国交回復への弾みとなりそうです。 また、米フロリダ州の亡命キューバ人は、アメリカ生まれの2世、3世が増えてきたことで、 親米派が政権を握り、アメリカ資本が間違いなくキューバに入ってきますので数年後にはマクドナルドやスターバックス、が席巻する国になるでしょう。 日本とキューバ(1) ハバナ旧市街の町並み米国との間では半世紀以上にわたり対峙してきたキューバですが、 日本との関係は古く、2009年は1929年に両国が外交関係を樹立してから80周年にあたります。 1959年のキューバ革命成立時も、日本は革命政権を承認して外交関係を継続し、 友好関係を維持してきています。 1995年には、フィデル・カストロ前議長が初来日。 その翌年のペルー日本大使公邸人質事件の際のキューバ側の協力的対応を機に両国関係は更なる拡大へ向けて動き出しました。 1998年には両国外務省間の政策対話が開始され、率直な話し合いを続けている他、 日本は、経済協力を通じてキューバ国民に直接裨益するような経済・社会開発を支援しています。 また、これまでハリケーン等の自然災害により被害を受けたキューバに対して緊急支援も行ってきています。 日本とキューバ(2) スタジアムで野球を楽しむキューバの人々スポーツ・文化面での交流も積み重ねてきました。 キューバの国技でもある野球に関しては、これまで様々な機会において両国は対戦しており、 大の野球ファンであるフィデル・カストロ前議長は、イチロー選手や松坂選手の活躍を賞賛し、 日本人の勤勉さやトレーニング法などを高く評価しています。 バレーボールや柔道・空手・剣道などの武道においても様々な形で選手やコーチの交流が行われています。 また、キューバ音楽・映画・絵画等は日本でも人気が高く、アーティスト同士の交流も活発です。 日本は、対米国をはじめとするキューバの対外政策やキューバ国内情勢を見極めつつ、 このような人的交流や対話を通じて、今後もキューバとの友好関係を深めていこうと考えています。 出典:「わかる!国際情勢」外務省ホームページを加工して作成
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